Adhyatmika Yatri

旅の中でのサドゥーやグルジ、様々な人との交流の中から、自分の心と体で感じながら集めてきたものをつらつら。

悟りを開いた聖人が、先生になった日

 

プランジと、プランジの娘ハンサと、彼の師スワミ・ラクシュマンジューの写真とともに。

 

悟った後の人生を生きている聖人、Shri Pran Nath Koul (以下プランジ)に出会ったのは2023年の7月、インドに到着したその日だった。

 

スリナガルに到着するなり居候させてくれていたインド人の友達が、「ずっと探し求めていたグルジ(師匠)にやっと出会ったんだ。紹介するね。」と言うので、何も知らないまま、彼の自宅を訪ねることになったのだ。

 

その友達の家から歩いて5分、カシミール定番のカンドゥールワーン(タンドゥールと薪でパンを焼いてるベーカリー)や、人々が群れをなす八百屋、道端で会話するムスリム達の陽気な様子を通り過ぎて、辿り着いたのは色とりどりの花が咲く庭の横に、壁がなくオープンになってるリビングルーム

 

そこにプランジは座っていた。

 

「どこから来たの?」「日本では何をしてるの?」という他愛もない会話を数分した後、いきなりサットサンガ(真実について語る、教える、教えてもらう、探求する時間)が始まった。

 

プランジ「君は本当は誰なんだ?」 (私、困って黙る)

 

「私は、私の、というけど、それは体やマインドなだけで、本当の君じゃないんだよ。この体やマインドは神の意識が宿ってるから動いてるだけで、この世界を五感やマインドを使って知覚・体験している、その意識自体が君の真の本質なんだよ。

 

本来の君は形も名前もなくて、時間や場所にも限られていない。どこにでもいて、なんでも出来て、すべてを経験しているのに、生まれた瞬間から名前が付けられ、「自分」という概念が出来る。

それを成す「私は人間」「私は日本人」「私はこれが出来る」「私は旅人」などの、「自分」を定義する思いこみで無限の自己をどんどん小さくしていってるだけなんだ。

 

だから「何者かになる」のではなく、「何者でもない者」でありなさい。何者でもなければ、あなたは何者でもあるのと同じなのだから。

 

でも人はそれを忘れてしまって、小さくなった自分と小さくなった他の人間との間で悩んだり苦しんだりする。でもみんな源は、たった一つの意識の光なだけなんだよ。

 

それに気づいたら、世界中すべてがきらきらしてて、愛に溢れているだけだよ。たった今、君はその中にいるんだ。実際、本当は何もしなくていいんだよ。君は常に君の本質と一緒に生きていて、それを感じることをブロックしてるマインドさえ鎮めることが出来たら、悟りの状態はいつも君の中にあるんだ。」

 

「鳥の声をただ聴いてみなさい。

花の美しさにただ感動する、一瞬一瞬を一点集中で経験する。それだけでいいんだ。なんで目の前の現実にわざわざ意味付けするんだ?

 

頭の中が常に思考で一杯だったり、過去の映像が頭の中で再現されていたら、「今」を全然体験出来ない。マインドは、純粋な体験を汚すだけ。仕事をするのに必要な時には使って、あとの時間はマインドは静寂であるのが、本来の状態なんだよ」

 

「すべては意識 (consciousness, prakash, shiva) なんだ。君も私も鳥も花も太陽も小さい小さい虫だって、すべて自分の意識の中に存在してる。

宇宙のすべてはひとつの命の表現で、神様が一人全役体験して遊んでるだけ。だから誰ともケンカのしようもない。カルマを解消するために役を演じあってるだけなんだ。

 

それを忘れてるから人間は苦しむけど、シヴァ(例のこの世のすべての命を体験している、この世で唯一の存在、命の源。ブラフマンとも言うし、ヴィシュヌ派の人達はラマ、クリシュナ、と呼ぶけど、コンセプトは同じ)は君を通した「生の体験」を楽しんでいるんだ。存在の根底には愛と喜びしかないんだよ!」

 

彼のグル、そのまたグル、ずっと大切に引き継がれてきた「真実」が彼の言葉を通して入ってきたような気持ちで、心がいっぱいになった。

 

わかりやすいレールに乗った人生を歩んでないから、時には誰からも理解を得られず、何をしているのか証明しなきゃと焦って、あれを頑張ったり、これを頑張ったり、でもなんとなく虚しい気持ちになる、ということもあったけど、それは「何者かになる」ために、一生懸命真逆の方向に走ってたからなんだと気づいた。

それと同時に「何者でもないものになる」という道への扉をプランジが開いてくれて、涙が止まらなくなるほど、心が軽くなったのだった。

 

こうしてインド初日に、心からついていきたい!と思える師に出会えたことで、運命は大きく新しい扉を開いた。

 

一緒に座っただけでもオーストリア、ロシア、メキシコ、アルゼンチン、インド、ドイツ、アメリカ、オーストラリアなど挙げきれない程、多くの国からカシミールシャイビズムを学びに来ている人たちがいるのに、聖典や関連の本は一切日本語に翻訳されていない。

 

だから、いつかどこかで誰かの役に立つかもしれないのなら、プランジが教えてくれることを他の人にもシェアしてみたいと思ったので、去年からインドで学んでること、そして旅をしながら、自分の目で見て心で感じできたことを、書いていきたいと思います。

 

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スリナガル:カシミールの夏の州都。人口の95%がムスリム。街の真ん中にダル湖が広がる。

カシミール:インド北西部。ラダックの隣。カシミールシャイビズム、タントラ仏教、スーフィズムイスラム神秘主義)が交わりながら、お互いの思想を深めあった場所。

カンドゥールワーン:人間2人くらい入れそうな大きさの釜で、毎日新鮮なカシミールロティを焼いているパン屋。ロティと言っても、インドの平たいチャパティと違って、パンに近い食感と味。インドの他のエリアのように、なんとなく気分転換に行けるチャイ屋がどこにでもあるわけでもない代わりに、人々はタンドゥールから焼きたてのパンが出てくる朝と午後、パン屋で人と交流する。

人々が群れをなす八百屋:順番という概念があまりなく、八百屋のおじさん一人で同時にみんなの相手をするから、人だかりができる。そして、みんな待っていても日常会話は丁寧にするから余計時間がかかるが、それはカシミールの人は全く気にしてない。人との触れ合いが推奨されてる文化なんだ、と捉えることにした。