Adhyatmika Yatri

旅の中でのサドゥーやグルジ、様々な人との交流の中から、自分の心と体で感じながら集めてきたものをつらつら。

「誰に好かれようが嫌われようが、みんな存在の根源に、これ以上ないくらい愛されている」 ーミルクの女神のささやきー

カシミールの主な巡礼地のうちの一つであるキールバワニ寺院。
別名ミルクの女神・キールバワニが座る祠は、聖なる泉の真ん中にある。

その自然の泉は、時として色が変わると言われており、
赤、ピンク、オレンジ、緑、青、白など違う色味を見せる中でも、暗い色、特に黒色となった時は、災難が迫っている兆候だとカシミールパンディット*1に信じられている。

スリナガルから車で村々を通り過ぎ、辿り着いた時の泉の色はきれいな白っぽい碧色。

色とりどりの服を着た巡礼者たちが、女神が好むとされているミルクとキール(甘いミルク粥。寺院の名前の由来)を、寺院から泉に捧げている。

祠のある聖なる泉に注ぎ込まれる、ミルクとお供物の花々

キールバワニ女神が座る祠

泉近くの人だかりから離れた寺院の端っこに、一人座り20分ほど瞑想した後、巡礼者たちに施されるプラサード(女神の祝福を受けた施し物、慈愛の象徴。キールバワニだけあって、プラサードもキール)を食べ、次の目的地に向けてまた車に乗り込んだ。

そこまでは何事もなく時が過ぎて行ったのだが、
次の目的地に辿り着くまでの車の中で、いきなり今まで考えた事がなかった不安がよぎり、一緒に行ったインド人の友達たちがみんな楽しそうにしてる中で、頭の中で一人ネガティブトリップを経験することとなった。

それというのも、思春期の何年か、「私は親に生まれなければよかったと思われている。私はいない方がいい」とゆう思い込みがものすごく強く、かなり精神的に苦しんだ時期があったのだが、

その後10代で一人旅を始めたことにより、「一人で生きていくってすごく大変だな、今までずっと面倒を見てもらってたんだ」と気づき、大切に育てられていなかったら今生きていない、と思えたことで感謝の気持ちが芽生え、それ以来は自分の母親の愛に絶大な信頼を置いていた。

しかし、いきなり「実際は私がまた精神的におかしくならないように、良い親を演じてるだけで、本当はやっぱり全然私のことなんかどうでも良いんじゃないか」という考えが頭をよぎったのだ。

「思考は意識の光を遮るただの埃のカーテン。目の前の現実にいよう」
「母にとっての事実が何にしろ、親として素晴らしい生き方をしてるんだから、どうでも良いこと」
と自分に言い聞かせるも、だんだんと「愛されていない」気持ちでいっぱいになってきてしまった。

「親からすら愛されていない。他に愛してくれる人もいない。一人で宇宙にふよふよ浮いてるだけで、存在してる意味もない」

そんな気持ちがじわじわ迫ってくる中、車内のみんなに気づかれないように、車の窓から景色を見てるふりをしながら涙を堪えていたその時、いきなり暖かく柔らかい光に包まれたような気持ちになり、心の内側で不思議なささやきを感じた。

「母親も父親もパートナーも友達も、すべて元々は一つの存在。
その存在の根源なるもの(いのち、ブラフマン、宇宙意識)は愛で溢れていて、その愛で世界はいっぱいに満ちていて、虫一匹にも行き渡らないことはない。

現実世界のあれこれや、頭の中で話し続ける思考の声、知性をのっとる感情のせいで、いつもいつでも降り注がれてる愛に気付けないだけで、
愛(いのち)がなかったら、そもそも生きてない。
生きてるってことは神様の愛で満たされているということ。

人間の形で生まれて、自我を持ちはじめて、ずーっと繋がっている愛の源、存在の根源自体を忘れてしまった人々は、愛を感じることができなくなってしまい、恋愛相手や親やまわりの人から必死で愛を得ようとする。

だけど、どんなに小さい自分(名前がついて体を持った私・自我)にとって大切な関係性だとしても、自分の人生に登場する人たちは、自分も含め、現実世界という宇宙劇場の中でカルマを解消しあう登場人物なだけ。

一歩下がったところから自分の人生を「表れては消えていく、カルマを作ったり解消したりすることで続く物質的な劇場」として見てみると、その登場人物に愛されてると感じることの本質は、存在の根源自体の愛を彼らを通して体験してるだけと気づく。

存在の根源自体からの愛で満ち足りているから生きている、という感覚を忘れなければ、誰かに愛されてるかどうか、なんてことは、どうでも良いことなんですよ。

わたしがいつもあなたの存在すべてを、これ以上満ちることは不可能なほどに祝福し、愛しているのだから」

突然の恩寵に、今度は嬉し涙で泣きそうなりながらも、この数分の体験がだんだんと薄れていき、頭では何を経験したのかわかるけど、心で同じ感覚を体験することは出来ない、という普段の感覚にだんだんと戻ってきたのであった。

そして車の中の世界に意識が戻った時、何も知らないはずの同席者の一人が、前の席からいきなりくるっと後ろを向いて、私の目をじっと見て、にこっと笑って、何も言わずに前を見た。

「わたしはいつもあなたといて、世界中はわたしで満ちています。
わたしはあなたを満たすもので、あなたの本質はわたし、すなわち愛です。
それを忘れずに、自分らしく生きていれば良いんですよ」

そんな風に言ってもらえた気がした。

このキールバワニのささやきは、生きとし生けるものものすべてに対しての言葉です。
何となくそのまんま愛されてるような気になった、そんな気持ちになってもらえたら嬉しいです。

もし気に入ってもらえたら、❤️やコメントをもらえたら、その一つ一つがとっても励みになります。ご拝読いただき、ありがとうございました。また次の記事にて。

●恩寵とは●
「恩寵とは何なのか」を深掘りしたい人は下記のページがおすすめです。

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●ひとことメモ●
カシミールパンディット:カシミール渓谷のヒンドゥー教徒。パンディットはヒンドゥー教ブラフマン層に位置し、「賢い者、学者」の意味がある。実際にカシミールパンディットの教育水準は、イスラムカシミール人と比べて高く、教職につく人が多い。

ムスリムの庭師が教えてくれた「地に足をつけて生きる」。

ヒンドゥー教には「セヴァ」という概念がある。

 

サンスクリット語で「無我無欲の奉仕、他人への献身」という意味で、アシュラムやグル、そして人々のために、見返りを求めることなく、純粋な献身の気持ちで、ただ心尽くして何か自分の出来ることをするのだ。

 

独り身で自由な分、好きなだけ自分のために時間を費やせる私の1日は、「自分の好奇心を満たすための勉強」、「友達と過ごす時間」、「生計を立てるための仕事」など、自分のための時間で埋まっていた。

 

だいぶ恵まれた生活なのに、「一人で生きて、一人で死んでいく。生きてる意味あるのかな?」と感じてきてしまい、色々考えた結果、「今世、何も成し遂げられなかったとしても、誰かのためになった時間は、無駄ではなかった」と死んだ時に思えるのではないか、とゆう結論に辿り着いた。

 

結局、人間は何かしら人のためになっていないと、存在意義を感じられない生き物なのかもしれない。

 

そんな流れで、アシュラムの庭師スルタンに、「セヴァとして手伝わせてほしい。何をしたらいい?」と聞いてみたら、「アムリテシュワラバイラヴァ寺院の周りの草むしりをしてみたらどうかな」とのこと。

 

そんな簡単に、一番楽しい剪定や種まきを出来るわけではない。ほのかに期待していた木登りや剪定は諦めて、地道に草むしりを始めたのだった。

 

それにしても無心になったり、学びがあったり、一人で自然と過ごす時間は奥深い。

難しい哲学の授業の合間にグルジ(師)がよく言う言葉が頭をよぎる。

「やることすべてに一点集中して取組みなさい」

「心を込めてやれば、すべての行為が祈りになる」

「マインドと呼吸は繋がっているから、考え事をコントロール出来ない時は、呼吸を観察しなさい」

 

いくら本を読んでも、これらの実践を行なっていかなければ、何も体験できないし、頭でっかちになるだけ。頭を宇宙につっこんで哲学するのと、地に足をつけて命を生きることのバランスが大切だよなぁ。*1

 

なんてことを思いながら、一生懸命、庭の緑と向き合っていたら、色々な気づきが心に入ってくるのだった。

 

まず、それぞれの雑草は抜きやすい方法が違うし、使うツールも変えていかなきゃいけない。そう、雑草は雑草でも、種類によって根の生え方が違うのだ。

 

人間関係で言えて、同じ話を聞いても、言葉の受け取り方や、頭の中でイメージしてるものは人によって全然違うもの。

だからお互い、見えない部分(価値観、経験、好みなど)が違うことを忘れずに、いきなり判断するのではなく、まずはじっくり観察して、理解しようとすることが大切なんだ、と感じたのだった。

 

また、雑念を仕事やエンターテイメントで忘れようとすることは、雑草をカマで茎から切るのと同じだということもわかった。

結局は雑念が浮かび上がる原因となる「思考の癖」自体を、上手に自分のマインドセットから根こそぎ取り去らないと、またいつか同じ様な雑念が、違う形でやってくるだけなのだ。

 

そして一番大きかった学びは、「実践の大切さ」だった。

1で方法を学んだ後、2−9の実践の中に本当の学びがあり、10の体得にしっかり辿り着くには、ひたすら実践・練習を頑張るしかないのだ。

 

それをスキップすると、方法を知っただけなのに、頭の中だけで体得に辿り着いたと思い込み、経験が伴わない薄っぺらの知識になってしまう。

 

こんなあたりまえのことが見えず、何を学んでもそうやって楽して生きようとしてきたから、「これだけはできる」と言えるものがないのだ、と深く反省し、「頭を知識で一杯にすることだけでなく、自分の体を使って練習と実践を積み重ねることの大切さに気づく」という大きな人生の転機を、草むしりにより迎えたのだった。

 

そうして1ヶ月が経ち、「草むしり以外も何か学びたい」と思い始めた頃、スルタンは私の心を読んだかのように、「次は草を植えよう」と言って、植え方を教えてくれた。

 

そうして草を植え始めたが、土が硬くて草むしりよりしんどい。

「願って夢が叶ったら、それを生きるのは自分の仕事」なんて声が頭の中に響き渡る。

それでも少しずつ地面が埋まっていくのが嬉しくて、地道に植え続けたのだが、「植えたら水をやる」ことが一切頭になかったことに後々気付くことに。「水やりは誰かがしてくれるだろう」と、自分で植えたものの「手入れ」について全く気にしなかったのだ。

 

そして「創造」と「破壊」は楽しいけど、「維持」することが一番難しく、またとても大切なんだ、と再度気付かされるのだった。

 

そんなこんなで草むしり、草植え、水やりをやっていくのが日々どんどん楽しくなってきて、しまいには友達と世間話してるより、草むしりをしていたいと思う様になっていった。

 

自然の中で一人で黙々と草と遊んでるような、自由な気持ちが好きだったのもあるが、「とにかく誰かのためになってるから、無駄じゃない」という、大いなる安心感を抱ける時間になってきたのだ。

 

頭では理解できない喜びがそこにあり、ずっと自己中に生きてきた自分の心の中に、「献身」という気持ちが、草を植えた数だけ芽生え始めたのだった。

 

庭を眺めるスルタン(左)

スルタンは何も語らない。

朝やって来て、優しく穏やかな笑顔で挨拶をし、フーカを吸って、チャイを飲んで、淡々と自分のやるべきことに集中して、最後に乾燥させた雑草を燃やして、何も考えてなさそうな顔で、ゆったりと歩いて家に帰る。

頭でっかちな話をすることも、自分や人の話をすることもなく、ただただ地に足をつけ、静かに素朴な日々の生活を送っている。

 

(((スルタンが20歳若かったら、惚れてたかもしれない)))

なんて雑念は、雑草と共に引き抜いて。。。

 

今日も、丁寧に生きる!

 

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●ひとことメモ●

1.「ヨガを日常で生きる」をモットーにするカシミールシャイビズムでは、ギャーナ(宇宙の真理・根源・本当のわたしに関する知識)とバクティ(献身・神への信愛・愛を込めて生きること)は、どちらも必要不可欠で、バランスを取りながら育んでいくべきと教えられる。

ひとつの要素だけで「私は宇宙の根源シヴァだったってこと、忘れてた!」という自己再認識(すなわち悟り)に辿り着くことは出来ないのだ。

献身により、根源の存在からの愛を自分の内側に体験することによって、揺るぎない信心が育つので、知識だけをかき集めても、大いなるものを想うことがなければ、信じてないものを体験することは出来ないし、献身的に生きても、知識や自制心や良心が養われていないと、感情的・盲信的になりやすく、悟りに至るに必要な心の平静さを保つことが難しいのだと思う。

8歳の天才聖人が詩で表した、「あなたは誰?」への答え

居候先のインド人夫婦と、ほぼ毎朝ウォーキングをしている。

仕事前に6時起きで、スリナガル市内のゴパの丘の一番上にある、アディシャンカラチャリヤ寺院までの、緑が鮮やかな山道を上るのだ。


アディシャンカラチャリヤとは、8世紀の聖人・ヴェーダンタ派の哲学者。

彼の名前がついたこの寺院は、カシミール渓谷の中で最も古い礼拝の場だったとされる。

Photographed by John Burke 1868

ゆるやかな上り坂を40分ほど登り辿り着くと、石造りの寺院と、隣にはアディシャンカラチャリア本人が座って瞑想・タパス(修行)をしていた洞穴がある。

 

聖人が実際に瞑想していた洞穴に座り瞑想する

その空間は、平和で純粋な雰囲気で溢れていて、この場所に座り目を閉じた瞬間に思考が止まっていく。

すっきりした気持ちで洞穴から出てくると、友達がアディシャンカラチャリアの話を教えてくれた。

 

「彼は7歳の時にはヴェーダンタの学校から卒業し、その時すでに悟っていたと言われてるんだけど、実際、彼が8歳の時にグルに出会って、"あなたは誰?" と聞かれた時の答えがすごいんだよ」

 

ヒンドゥー哲学で、全ての物事の本質と言われている、形もなく、性質もなく、時間や空間をも超えた存在であり、言葉では表すことが出来ないと言われているブラフマン(宇宙意識)。

 

宇宙の根源であり、内側から体験することでのみ知ることの出来るブラフマンと、一つになっている「わたし」を、彼は「わたし(ブラフマン)ではないもの」をあげることによって、"Nirvana Shatakam ー解脱への6つの詩ー"に表した。

 

1 मनोबुद्धयहंकाराचित्तानि नाहं न च श्रोत्रजिह्वे न च घ्राणनेत्रे ।
  न च व्योम भूमिर्न तेजो न वायुः चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥१॥

 

  私は知性、自我、思考など心のどんな側面でもなく

  聞いたり、味わったり、嗅いだり、見たりするための器官でもなく

  空でも地球でも火でも空気でもなく

  純粋意識と至福の顕現、シヴァである

  シヴァである

 

2 न च प्राणसंज्ञो न वै पञ्चवायुः न वा सप्तधातुः न वा पञ्चकोशः ।
  न वाक्पाणिपादौ न चोपस्थपायु चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥२॥

 

  私は生命力でも、呼吸の流れでも、7つの体の要素でも、

  5つの鞘でもない

  私は口、足、手、排泄器官や生殖器など、体のどの部分でもなく

  純粋意識と至福の顕現、シヴァである

  シヴァである

 

3 न मे द्वेषरागौ न मे लोभमोहौ  मदो नैव मे नैव मात्सर्यभावः ।
  न धर्मो न चार्थो न कामो न मोक्षः  चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥३॥

 

  私の中には憎しみも、執着も、貪欲も、妄想もなく

  情熱も、誇りも、嫉妬も存在しない

  自分の義務、富、欲望や解脱も追い求めず *1

  純粋意識と至福の顕現、シヴァである

  シヴァである

 

4 न पुण्यं न पापं न सौख्यं न दुःखं न मन्त्रो न तीर्थं न वेदा न यज्ञाः ।
  अहं भोजनं नैव भोज्यं न भोक्ता चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥४॥

 

  私にとって美徳も、罪も、喜びも、苦痛も意味はなさず *2

  マントラも、巡礼も、経典も、儀式も必要ない *3

  経験でも、経験の対象でも、経験者でもなく

  純粋なる意識と至福の顕現、シヴァである

  シヴァである

 

5 न मे मृत्युर्न शङ्का न मे जातिभेदः पिता नैव मे नैव माता न जन्मः ।
  न बन्धुर्न मित्रं गुरुर्नैव शिष्यं चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥५॥

  

  私は死やその恐怖、カーストや信仰などの区別に縛られず、

  父も、母も、誕生もなく、*4

  親戚や、友人や、教師や生徒もいない *5

  ただ純粋なる意識と至福の顕現、シヴァである

シヴァである

 

6 अहं निर्विकल्पो निराकाररूपो विभुत्वाप्यि सर्वत्र सर्वेन्द्रियाणाम् ।
  सदा मे समत्वं न मुक्तिर्न बन्धः चिदानन्दरूपः शिवोऽहम् शिवोऽहम् ॥६॥

 

  私は変幻自在で、姿は形ないものであり、

  全てのものの本質として遍在し、

  どこにでも存在し、すべての感覚に浸透している

  執着をすることも、解放されることもない

  ただ純粋なる意識と至福の顕現、シヴァである

  無であり、すべてである、シヴァである

 

6編全ての最後に繰り返される Shivoham は 、

Shiva + Aham (アハム。わたし。個人的な私ではなく、宇宙的な自己、ブラフマン)を意味し、繰り返し唱えることにより、「わたしは何者でもないもの、ただ存在する宇宙意識である」ということを強調し、歌う人に自己の本質を思い出させる。

 

8歳でさらりとこんな自己紹介が出来る聖人が、修行をしていた寺院が身近にあり、散歩にですら古の聖人の息吹を感じることが出来る、カシミールでの日常がますます好きになる、そんな平和な朝の時間なのだった。

 

 

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● ひとことメモ ●

 

1. ヴェーダの4つの人生の目的とされるダルマ(義務、道徳)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解脱)。人間体験の実態を理解し、そこから解脱した状態なので、その中で推奨される生き方は全く意味を成さない。

2. 二元性が存在しないので、何の性質も影響を及ぼさない。世の中のすべてはひとつの意識(ブラフマン・宇宙意識・真の自己)の反映であり、全ての相反するものは自己の中に含まれる。

3. その先の目標を達成しているので必要ない。

4. 終わりも始まりもなく、原因の無い存在である宇宙意識には、誕生の瞬間もなく、母も父も存在しない。

5. 「すべてはわたし、わたしはすべて」という、存在の真実に気づいているので、小さな自己が物理次元の中で、人間体験のためにやりくりしている「関係性」、すなわちカルマ精算のための人生劇場においてのお互いの「役」に縛られていない

Yoga in Action ー日常生活でヨガを生きるー

アシュラムの入り口からの景色

インドに到着して早々、

「わたしって、森羅万象って、なんなんだろう?」という、子供の頃から追い求め続けた不思議の答えが、10世紀も前に書かれたヒンドゥー哲学の聖典にめちゃくちゃ納得できる論理的な説明でまとめられていることに気づき、カシミール人の先生が教えてくれるクラスに、昼に夜にと通い詰めることになった。

 

グルジ(先生)が家族と暮らす家の横にある、彼が子供の頃に住んでいたという壁も床も粘土で塗られた古い家で、日本のようにカーペットに座って授業が行われる。

 

    

 

今のところの教科書は Utpaladeva (10世紀のシャイビズム・タントラの聖人、哲学者であり詩人)によって書かれた "Shivastotravali" という神への讃歌の本。

 

授業の中でよくグルジは「洞窟に篭って瞑想するのがヨガではない。日々の日常の中で、自分の本質を忘れずに、自分の役を最高にこなすことがヨガなんだ!」と言う。

 

「気づいてる状態を常に保ちなさい。

ご飯のおいしさ、布団の暖かさ、聴こえるもの、見えるもの、すべてを意識的に体験するんだ。考え事をしていたら、今ここの現実を直接体験出来ないだろう。

 

そして、一点集中して、ひとつひとつの事を丁寧に心を込めてしなさい。

未来や過去へと自分の意識を分散させずに、目の前のことのみに向けるんだ。

 

草むしりをしてるなら、草むしりを全身全霊で楽しむ。

料理をしてるなら、合間にあれこれせずに、愛を込めて料理に集中する。

そうしたらいい仕事が出来るし、何よりもその時、君は本当の意味でヨガをしている。その状態を保つんだよ。

 

*一般的に知られているヨガは、アーサナと呼ばれ、ヨガ八支則のうちの一つであり、ここではヨガ本来の意味である「私たちが自分だと思い込んでる小さく限られた個人意識(自我)と内在神(真我、魂、アートマ)の繋がり、またはその先に辿り着く、宇宙意識(ブラフマン、シャイビズムではシヴァ)との融合」を意味する。

 

心を込めて生きているとき、何をしていたとしても、それはプジャ(礼拝)であり、祈りなんだ。

君が呼吸してることも、体を洗うことも、自分の心の中ですべてを体験してるシヴァへの捧げものとなる。寺院で瞑想や儀式をするだけがプジャなのではない。

 

”自分が意識をどこに向けているのかに気づいている、さらなる意識”を保ったまま普段の日常を生きる。それがYoga in Action(日常生活一瞬一瞬において真我の状態である、心で生きるということ)なんだ!」

 

保つのは、だいぶ難しい。。。

ちなみに、何か対象がないと意識を保てない場合、今ここに集中することのほかに、呼吸の観察を対象にすることを勧められるのだが、

グルジの師匠曰く「半年間、起きてる時も寝てる時も、一呼吸も逃さずに意識することができたら悟れるよ」とのこと。

悟りを甘く見ていた、と気づいた瞬間(-_-)

 

(ヨギは体が眠りに落ちる瞬間も、寝てる間も、起きる瞬間も、ずっと意識を保っていられる。起きてる時も普通に動いたり話したりしながらも、内側では24時間365日常に気づきの状態でいる。そして、どうやらグルジの家族はみんなそれがあたりまえの状態の様)

 

こんな話をしながら本を読み進めていき、今日はここまで、というところまで来ると、グルジの家族がお茶(カシミールではチャイではなく、緑茶にスパイスを足したカワティーというものをよく飲む)を出してくれて、みんなが持ち寄ったお菓子をつまみながら、神様と哲学でいっぱいになった頭から、心と体の次元に戻ってくる。

 

そう、ここが私たちの実践の場なのだ。

 

他の本で学んでいくこととなる哲学の部分も、ものすごくおもしろいんだけど、結局魂が本質だとしても、体を持って物理次元にも生きている私たちにとって、大切なのは哲学的知識を日常に生かすこと。

 

難しいヒンドゥー哲学のスローカ(俳句のような形式で書かれた、聖典や叙情詩などの詩)をサンスクリットで唱えることが出来ても、それを生かすことが出来ないのなら、これらの知識は意味がない。

 

ヨガの教えを日々の生活の中で生きる時、古くから引き継がれた教えは、私たちの心に寄り添う、生きた知恵となる。

 

現実世界(マーヤー)を真我から分けて、「本来の自己でないもの」「避けるべき幻想」とする二元論より、あえてその中で「ヨガを生きること」を大切にするこの教えに恋に落ちて、世界中から生徒がやってくるのも不思議ではない。

 

今日も丁寧に生きる!

 

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Utpaladeva: Somanandaの弟子。彼による神の定義は「偉大なるただ一つの神性で、それはすべての生き物の内なる自己」であり、解脱とは「自分ではない何かになることではなく、自分の本質に覆いかぶさったあらゆる思い込みを取り除き、自分自身がシヴァであると "思い出す” ことである」という再認識説(Pratyabhijñā)を説いた。

 

Shivastotravali: Utpaladevaによって書かれた本。上の文を読むと小難しくて、ドライな哲学者のように思えるが、この本を読むと彼はものすごい献身の人なんだと感じる。彼が書いた神への讃歌は、神への愛と人間らしさで溢れていることがわかる。

 

カワティー:緑茶にシナモン、カルダモンなどのスパイスを入れ、苦くならない程度に煮出し、バラの花びらや細かく砕いたアーモンドなどを散らしたもの。ちなみにムスリムカシミール人は、カワも飲むが、それよりナムキンというピンク色の塩を入れたお茶が好き。(個人的にあんまり好きじゃない)

悟りを開いた聖人が、先生になった日

 

プランジと、プランジの娘ハンサと、彼の師スワミ・ラクシュマンジューの写真とともに。

 

悟った後の人生を生きている聖人、Shri Pran Nath Koul (以下プランジ)に出会ったのは2023年の7月、インドに到着したその日だった。

 

スリナガルに到着するなり居候させてくれていたインド人の友達が、「ずっと探し求めていたグルジ(師匠)にやっと出会ったんだ。紹介するね。」と言うので、何も知らないまま、彼の自宅を訪ねることになったのだ。

 

その友達の家から歩いて5分、カシミール定番のカンドゥールワーン(タンドゥールと薪でパンを焼いてるベーカリー)や、人々が群れをなす八百屋、道端で会話するムスリム達の陽気な様子を通り過ぎて、辿り着いたのは色とりどりの花が咲く庭の横に、壁がなくオープンになってるリビングルーム

 

そこにプランジは座っていた。

 

「どこから来たの?」「日本では何をしてるの?」という他愛もない会話を数分した後、いきなりサットサンガ(真実について語る、教える、教えてもらう、探求する時間)が始まった。

 

プランジ「君は本当は誰なんだ?」 (私、困って黙る)

 

「私は、私の、というけど、それは体やマインドなだけで、本当の君じゃないんだよ。この体やマインドは神の意識が宿ってるから動いてるだけで、この世界を五感やマインドを使って知覚・体験している、その意識自体が君の真の本質なんだよ。

 

本来の君は形も名前もなくて、時間や場所にも限られていない。どこにでもいて、なんでも出来て、すべてを経験しているのに、生まれた瞬間から名前が付けられ、「自分」という概念が出来る。

それを成す「私は人間」「私は日本人」「私はこれが出来る」「私は旅人」などの、「自分」を定義する思いこみで無限の自己をどんどん小さくしていってるだけなんだ。

 

だから「何者かになる」のではなく、「何者でもない者」でありなさい。何者でもなければ、あなたは何者でもあるのと同じなのだから。

 

でも人はそれを忘れてしまって、小さくなった自分と小さくなった他の人間との間で悩んだり苦しんだりする。でもみんな源は、たった一つの意識の光なだけなんだよ。

 

それに気づいたら、世界中すべてがきらきらしてて、愛に溢れているだけだよ。たった今、君はその中にいるんだ。実際、本当は何もしなくていいんだよ。君は常に君の本質と一緒に生きていて、それを感じることをブロックしてるマインドさえ鎮めることが出来たら、悟りの状態はいつも君の中にあるんだ。」

 

「鳥の声をただ聴いてみなさい。

花の美しさにただ感動する、一瞬一瞬を一点集中で経験する。それだけでいいんだ。なんで目の前の現実にわざわざ意味付けするんだ?

 

頭の中が常に思考で一杯だったり、過去の映像が頭の中で再現されていたら、「今」を全然体験出来ない。マインドは、純粋な体験を汚すだけ。仕事をするのに必要な時には使って、あとの時間はマインドは静寂であるのが、本来の状態なんだよ」

 

「すべては意識 (consciousness, prakash, shiva) なんだ。君も私も鳥も花も太陽も小さい小さい虫だって、すべて自分の意識の中に存在してる。

宇宙のすべてはひとつの命の表現で、神様が一人全役体験して遊んでるだけ。だから誰ともケンカのしようもない。カルマを解消するために役を演じあってるだけなんだ。

 

それを忘れてるから人間は苦しむけど、シヴァ(例のこの世のすべての命を体験している、この世で唯一の存在、命の源。ブラフマンとも言うし、ヴィシュヌ派の人達はラマ、クリシュナ、と呼ぶけど、コンセプトは同じ)は君を通した「生の体験」を楽しんでいるんだ。存在の根底には愛と喜びしかないんだよ!」

 

彼のグル、そのまたグル、ずっと大切に引き継がれてきた「真実」が彼の言葉を通して入ってきたような気持ちで、心がいっぱいになった。

 

わかりやすいレールに乗った人生を歩んでないから、時には誰からも理解を得られず、何をしているのか証明しなきゃと焦って、あれを頑張ったり、これを頑張ったり、でもなんとなく虚しい気持ちになる、ということもあったけど、それは「何者かになる」ために、一生懸命真逆の方向に走ってたからなんだと気づいた。

それと同時に「何者でもないものになる」という道への扉をプランジが開いてくれて、涙が止まらなくなるほど、心が軽くなったのだった。

 

こうしてインド初日に、心からついていきたい!と思える師に出会えたことで、運命は大きく新しい扉を開いた。

 

一緒に座っただけでもオーストリア、ロシア、メキシコ、アルゼンチン、インド、ドイツ、アメリカ、オーストラリアなど挙げきれない程、多くの国からカシミールシャイビズムを学びに来ている人たちがいるのに、聖典や関連の本は一切日本語に翻訳されていない。

 

だから、いつかどこかで誰かの役に立つかもしれないのなら、プランジが教えてくれることを他の人にもシェアしてみたいと思ったので、去年からインドで学んでること、そして旅をしながら、自分の目で見て心で感じできたことを、書いていきたいと思います。

 

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スリナガル:カシミールの夏の州都。人口の95%がムスリム。街の真ん中にダル湖が広がる。

カシミール:インド北西部。ラダックの隣。カシミールシャイビズム、タントラ仏教、スーフィズムイスラム神秘主義)が交わりながら、お互いの思想を深めあった場所。

カンドゥールワーン:人間2人くらい入れそうな大きさの釜で、毎日新鮮なカシミールロティを焼いているパン屋。ロティと言っても、インドの平たいチャパティと違って、パンに近い食感と味。インドの他のエリアのように、なんとなく気分転換に行けるチャイ屋がどこにでもあるわけでもない代わりに、人々はタンドゥールから焼きたてのパンが出てくる朝と午後、パン屋で人と交流する。

人々が群れをなす八百屋:順番という概念があまりなく、八百屋のおじさん一人で同時にみんなの相手をするから、人だかりができる。そして、みんな待っていても日常会話は丁寧にするから余計時間がかかるが、それはカシミールの人は全く気にしてない。人との触れ合いが推奨されてる文化なんだ、と捉えることにした。