カシミールの主な巡礼地のうちの一つであるキールバワニ寺院。
別名ミルクの女神・キールバワニが座る祠は、聖なる泉の真ん中にある。
その自然の泉は、時として色が変わると言われており、
赤、ピンク、オレンジ、緑、青、白など違う色味を見せる中でも、暗い色、特に黒色となった時は、災難が迫っている兆候だとカシミールパンディット*1に信じられている。
スリナガルから車で村々を通り過ぎ、辿り着いた時の泉の色はきれいな白っぽい碧色。
色とりどりの服を着た巡礼者たちが、女神が好むとされているミルクとキール(甘いミルク粥。寺院の名前の由来)を、寺院から泉に捧げている。
泉近くの人だかりから離れた寺院の端っこに、一人座り20分ほど瞑想した後、巡礼者たちに施されるプラサード(女神の祝福を受けた施し物、慈愛の象徴。キールバワニだけあって、プラサードもキール)を食べ、次の目的地に向けてまた車に乗り込んだ。
そこまでは何事もなく時が過ぎて行ったのだが、
次の目的地に辿り着くまでの車の中で、いきなり今まで考えた事がなかった不安がよぎり、一緒に行ったインド人の友達たちがみんな楽しそうにしてる中で、頭の中で一人ネガティブトリップを経験することとなった。
それというのも、思春期の何年か、「私は親に生まれなければよかったと思われている。私はいない方がいい」とゆう思い込みがものすごく強く、かなり精神的に苦しんだ時期があったのだが、
その後10代で一人旅を始めたことにより、「一人で生きていくってすごく大変だな、今までずっと面倒を見てもらってたんだ」と気づき、大切に育てられていなかったら今生きていない、と思えたことで感謝の気持ちが芽生え、それ以来は自分の母親の愛に絶大な信頼を置いていた。
しかし、いきなり「実際は私がまた精神的におかしくならないように、良い親を演じてるだけで、本当はやっぱり全然私のことなんかどうでも良いんじゃないか」という考えが頭をよぎったのだ。
「思考は意識の光を遮るただの埃のカーテン。目の前の現実にいよう」
「母にとっての事実が何にしろ、親として素晴らしい生き方をしてるんだから、どうでも良いこと」
と自分に言い聞かせるも、だんだんと「愛されていない」気持ちでいっぱいになってきてしまった。
「親からすら愛されていない。他に愛してくれる人もいない。一人で宇宙にふよふよ浮いてるだけで、存在してる意味もない」
そんな気持ちがじわじわ迫ってくる中、車内のみんなに気づかれないように、車の窓から景色を見てるふりをしながら涙を堪えていたその時、いきなり暖かく柔らかい光に包まれたような気持ちになり、心の内側で不思議なささやきを感じた。
「母親も父親もパートナーも友達も、すべて元々は一つの存在。
その存在の根源なるもの(いのち、ブラフマン、宇宙意識)は愛で溢れていて、その愛で世界はいっぱいに満ちていて、虫一匹にも行き渡らないことはない。
現実世界のあれこれや、頭の中で話し続ける思考の声、知性をのっとる感情のせいで、いつもいつでも降り注がれてる愛に気付けないだけで、
愛(いのち)がなかったら、そもそも生きてない。
生きてるってことは神様の愛で満たされているということ。
人間の形で生まれて、自我を持ちはじめて、ずーっと繋がっている愛の源、存在の根源自体を忘れてしまった人々は、愛を感じることができなくなってしまい、恋愛相手や親やまわりの人から必死で愛を得ようとする。
だけど、どんなに小さい自分(名前がついて体を持った私・自我)にとって大切な関係性だとしても、自分の人生に登場する人たちは、自分も含め、現実世界という宇宙劇場の中でカルマを解消しあう登場人物なだけ。
一歩下がったところから自分の人生を「表れては消えていく、カルマを作ったり解消したりすることで続く物質的な劇場」として見てみると、その登場人物に愛されてると感じることの本質は、存在の根源自体の愛を彼らを通して体験してるだけと気づく。
存在の根源自体からの愛で満ち足りているから生きている、という感覚を忘れなければ、誰かに愛されてるかどうか、なんてことは、どうでも良いことなんですよ。
わたしがいつもあなたの存在すべてを、これ以上満ちることは不可能なほどに祝福し、愛しているのだから」
突然の恩寵に、今度は嬉し涙で泣きそうなりながらも、この数分の体験がだんだんと薄れていき、頭では何を経験したのかわかるけど、心で同じ感覚を体験することは出来ない、という普段の感覚にだんだんと戻ってきたのであった。
そして車の中の世界に意識が戻った時、何も知らないはずの同席者の一人が、前の席からいきなりくるっと後ろを向いて、私の目をじっと見て、にこっと笑って、何も言わずに前を見た。
「わたしはいつもあなたといて、世界中はわたしで満ちています。
わたしはあなたを満たすもので、あなたの本質はわたし、すなわち愛です。
それを忘れずに、自分らしく生きていれば良いんですよ」
そんな風に言ってもらえた気がした。
このキールバワニのささやきは、生きとし生けるものものすべてに対しての言葉です。
何となくそのまんま愛されてるような気になった、そんな気持ちになってもらえたら嬉しいです。
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